慶應義塾の一貫教育の原点

独立自尊の精神を体現した将来の社会の先導者を育てるために、
小学校から大学に至る一貫教育の新たな源流が生まれました。
そこには、 150余年に亘る永い歴史に裏打ちされた力があります。

「我より古をなす」

 1858(安政5)年、慶應義塾は始まりました。藩士らに蘭学を教える者がいなくなり困っていた中津藩の命で、大坂の適塾にいた福澤先生が江戸の藩邸に招かれたのがきっかけです。しかし、先生は、次第に塾の経営を自らの使命として強く自覚することになります。特に、1862(文久2)年、幕府の遣欧使節の一員として渡欧した際には、欧州各国の事情を探索する中で、人物の養育の必要性を切実に認識することになりました。
 1868(慶應4・明治元)年には、独自に土地建物を購入して芝新銭座に移転します。この時の年号をとって「慶應義塾」と命名しました。丁度、江戸の市中は戊辰戦争の混乱の中にありましたが、慶應義塾は砲声を聞きながら、一日も休業することはありませんでした。実際に我が国の洋学の命脈を守った学塾としての自負を胸に、自分達が、日本の洋学の伝統を引き継ぎ、更に新しい時代を切り拓いてゆくのだという「自我作古(我われより古いにしえをなす)」の使命感はより強いものになりました。

慶應義塾風 〜独立自由にして而も実際的精神〜


『世界国盡』慶應義塾福澤研究センター

 当初は様々な年代の塾生が渾然一体となって学んでいたものを、年齢に応じた教育環境を整えていきました。1868(慶應4・明治元)年には年少の寄宿生のために童子寮を設け、そして、1890(明治23)年、大学部を発足させ、従来の課程を普通部と称すようになります。更に、学校間の年齢の重複等を解消し、1898(明治31)年、今日に至る義塾の一貫教育の制度が確立しました。

 この時、満6歳から22歳までの一貫教育の特色について福澤先生は、「その卒業生は学問に於て敢て他の学生に譲らざるのみか、十六年の苦学中には一種の気風を感受すべし。即ち慶應義塾風にして、(略)之これを解剖すれば則すなわち独立自由にして而しかも実際的精神より成る」と説明しています。『福翁自伝』に、「東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較してみるに、東洋になきものは、有形において数理学と、無形において独立心と、この二点である」という有名な一節がありますが、「独立自由にして而も実際的精神」に対応する記述と言えます。

真に大切なものを揺るがせにしない

 「独立自由にして而も実際的精神」とは、既存の概念、権威や時代の流行等に迎合したり縛られたりすることなく、それらから自由に、自分で徹頭徹尾考え、実践することのできる独立の気力、そしてそれを可能にするあらゆる事物と現象を丁寧に観察し、その背後に潜む真実や真理原則を見抜く科学的な思考力と言えます。慶應義塾は、塾生一人一人にこのような精神の涵養を期待して来ましたし、学校そのものも、その姿勢を大切にして来ました。
 例えば、その時代の情勢からはかけ離れて新たな取り組みを行ったものが、後の世では当たり前になっていることもあります。逆に、その時代には流行した教育法に安易に迎合せず、流行に振り回されないで済んだことも多々あります。また、昭和10年代の軍事色の強い時代やGHQの意向が強かった時代においてさえ、その風潮や行政の意向に対して毅然とした姿勢を保ち続けたエピソードが残っています。
 特に、人間としての普遍的な基礎を作る初等教育段階において、時代の流行や社会の風潮に振り回されることなく、人間としての発達段階に応じて、その段階の子供に真に大切だと考えることを些かも揺るがせにしないという姿勢が重要であると私達は考えています。

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