慶應義塾では、福澤先生以来、独立自尊の人を育てるための基本として、
子供の年代の教育、家庭教育を大切にして来ました。

桃太郎は盗人ともいうべき悪者なり

 「桃太郎が鬼が島に行きしは、宝を取りに行くと言えり。けしからぬことならずや。宝は鬼の大事にして、しまい置きし物にて、宝のぬしは鬼なり。ぬしある宝を、わけもなく取りに行くとは、桃太郎は盗人ぬすびとともいうべき悪者なり。(中略)宝を取りて家に帰り、おじいさんとおばばさんに上げたとは、ただ欲のための仕事にして、卑劣千万なり。」(原文はすべて平仮名)
 これは、福澤先生が長男一太郎、次男捨次郎に書いて与えていた『ひゞのをしへ』の一節です。誰もが知っているお伽話を例に、しかも意表を突く見方を示すことで、子供達は既成の考え方に捉われずに自分で考え直すことの楽しさを知ることができます。

 先生は、日本中の子供達のためにも多くの著作を出しましたが、子供にも分かりやすい例を示したり、興味を持つ挿し絵を入れたりと、様々な愉しく学べる工夫をしています。

一家は習慣の学校なり


長男一太郎、次男捨次郎と福澤先生

 「家庭」という言葉が広く使われるようになったのは、『家庭叢談』が出てからであると言われています。親子の団欒に適した記事を集め、1876(明治9)年から福澤先生が刊行した雑誌です。
 福澤先生は、人間の発育の基礎として学校以上に家庭の役割を重視していました。「一家は習慣の学校なり、父母は習慣の教師なり」という言葉が示すように、家庭の団欒の中で、父母の言行から自然に感化されるうちに良き習慣が身に付くことを期待して、家庭の役割と責任の大きさを繰り返し説きました。
 先生は、情愛に満ちた家庭を良しとしました。それは自分の家庭の楽しさだけを考えているような利己的なマイホーム主義とは大いに異なるものです。

『家庭叢談』の発刊の緒言の冒頭で、この誌名は、ただ家庭内の事のみを記して家の外のことは顧みないという意味ではないと記しています。このことが端的に示すように、社会的な関心を常に持ち、社会の中での責任を意識するような家庭を好ましいと考えていました。

春の野の草木を見ても無難に花の開かんこと祈る

 1898(明治31)年、慶應義塾の一貫教育の課程が確立した時に、福澤先生はその趣旨を演説で次のように語りました。

およそ世の中に事業多しといえども、人生天賦の智徳をしてその達すべき処に達せしむるの道を講ずるより高尚なるはなし。春の野の草木を見ても無難に花の開かんことを祈る。いわん人間の子に於てをや。子女の漸く成長してその智力の漸く発生せんとする者が、至当の教育を受けて社会一人前の男女となるは、草木の花を開き実を結ぶに等し。誰れか之を観て悦ばざる者あらんや。誰れか之を助けてその無難を祈らざる者あらんや。」

 子供の成長を見守る温かな眼差しと深い情愛が感じられる言葉です。この子供達の今の仕合わせと将来の仕合わせを願う温かな眼差しは、今でも慶應義塾の中に根付いています。

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